| 代表者略歴 |
-------【Fase1】 一人問題との向き合い-------
法政大学社会学部社会学科にて社会心理学を学ぶ。
真木悠介著「気流のなる音―交差するコミューン」で、文化人類学者のカルロス・カスタネダ(Carlos Castaneda)の著作に出会い大いに触発される。「呪術師と私 - ドン・ファンの教え」をはじめとした一連のシリーズを熟読、「カラスになる」ためにはどうしたらいいのか?
真剣に自身と向き合い自問自答の日々に浸かる。
また、アーヴィング・ゴッフマン(Erving Goffman)「行為と演技―日常生活における自己呈示」に出会い、文化人類学の"構造主義"と社会心理学の"認知"の狭間でますます「カラスになる」ことにのめり込む。
「すべての状況にあてはまる行為の規則は、【状況にふさわしい】行為をせよ」啓示をうけた。
卒業論文のテーマは「対面的相互行為時における操作コミュニケーション」だった。
新卒後、証券会社勤務。
昔かたぎの"株屋経営"と"人材の使い捨て"マネジメントを目の当たりにし驚愕。ノルマ地獄の日々をつぶさに体験学習。なにが理不尽なのか?なぜ理不尽なのか?なぜ経営者や管理職は自ら学習しようとせず、成長もなく、根拠もなく威張りたがるのか?「なぜなぜ?」の癖が身につき習慣化。
証券業界研究に発展。反面教師として大いに学ぶ。このときのノルマ地獄の経験が後の人生を歩む上でのおおきな「粘り腰」基盤となり、自身の「どんなことでも動じない」基礎となったことは言うまでもない。当事の専務のお言葉「角木君、まじめにやっていれば世間は甘いよ。いんちきをすると世間は冷たいんだよ」には、正直「自分を見てから言ってね!あなたには言われたくないよ!」と思ったが、後に的得た言葉だなと実感。10年後のことである。
「僕はカルロスカスタネダの師ドンファンと向き合いたいのです」という迷言を残し証券界から離脱。
当時の上司の言葉は「お前の考えていることは俺にはさっぱりわからん」であった。
-------【Fase2】 一人問題からの旅立ち-------
1986年 故樋口晃氏(前・株式会社時空映像代表取締役)、山本淳一氏(現・株式会社UNO-PLAN代表取締役)、坂井敦氏とともに、映像制作会社-(株)時空映像設立。 同社取締役に就任。
樋口晃氏の3番弟子として、リクルーティングの人物撮影スチールカメラマンへの道を志す。
樋口晃氏の弟子になったのは、樋口晃氏のスタジオにJBLバックロードホーンとLAXの真空管式オーディオアンプがあったからである。無類のオーディオマニア&JAZZキチガイの私にとってそこは至上の楽園であった。毎日勝手に行っては大好きなキースジャレットを一人でかけまくりオルトフォンのカートリッジをすり減らしては悦に入っていたのだった。樋口晃氏はもう鬼籍に入ってしまったが、オーディオ・JAZZ・酒・食べ物などなど、すべてにおいてウマが合い、毎日音楽を聴き酒を飲みに行く日々を過ごす毎日だった。みんな若かくてエネルギーの塊だったと思う。樋口晃さん有難う。合掌。
スチールカメラマンは1枚の写真を撮影するために、映像で言う"監督"・"カメラマン"・"照明"を全て一人でする職業だ。構図も大切だが、一番重要なのはいかに迅速に最適に照明をセットできるかに決まると僕は思う。 その点樋口晃さんは適当ないいかげんさが天才的な方だった。
その"いい加減な天才さ"を見事に上回った"本物の天才"が1番弟子の山本淳一氏(現・株式会社UNO-PLAN代表取締役)である。そして3番弟子-"努力のカメラマン"坂井敦氏に囲まれスチールカメラマンの道もありかと思われた日々であったが、現実はそう甘くなく、己の才能の欠如にすぐ気づき!
またまた、「カラスになる」ためにはどうしたらいいのか?真剣に自身と向き合い自問自答の日々に浸かる。カルロスカスタネダ病が出たのだった。
しかし当時を知る人間によると"好きな女に振られて寝込んでいた"という風説もあるらしい。
アンドレ・ポール・ギヨーム・ジッド(Andre Paul Guillaume Gide)の個人主義に触れ、
ヴァランタン=ルイ=ジョルジュ=ウジェーヌ=マルセル・プルースト
(Valentin-Louis-Georges-Eugene-Marcel Proust)の迷宮に惑い、
アンドレ・マルロー(Andre Malraux)
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(Antoine de Saint-Exupery)の行動主義に学び、
アルベール・カミュ(Albert Camus)に「人間存在の不条理さ」を突きつけられ、
ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre)
の実存主義-「実存は本質に先立つ」に傾斜したかと思うと、
クロード・レヴィ=ストロース(Claude Levi-Strauss)の構造主義に啓蒙され、本質と現象の対立に悩む。
アンドレ・ブルトン(Andre Breton)の「シュルレアリスム宣言」により超現実主義に一瞬のめり込む。
現象と本質そして構造主義への揺り返しに身をまかせつつ、
ジャック・デリダ(Jacques Derrida)のポスト構造主義に出会い、脱構築(ディコンストラクション)なるもの
への興味からフランスへの旅立ちを決意。
サラ金から50万円を借り、得意の株式錬金術で渡航費用を徐々に増やし、NTT株の売り出し抽選を、
元同僚に手を回して優先的に入手。見事300万円の高値で売り抜け渡航費用を確保。
-------【Fase3】 フランス語の狭間で-------
1987年渡仏。
24時間をかけてアンカレッジ経由でフランスパリのシャルル・ド・ゴール国際空港に降り立ったのは午前5時。冬のパリはまだ真っ暗だった。
しかしGare de RyonからTOURSに向かう列車のなかの俺の頭には「夢・希望・未来・幸せ・愛」 という"一人問題ワードベスト5"で埋め尽くされ、希望の光に照らされて胸躍っていたのだった。
大学に入学するため、最初に学んだのはTOURSのl'Institut de Touraine。
フランスで一番きれいな発音のフランス語を学べるという触れ込みで入学したのだが、ふとしのフランス語の発音がきれいだったという噂を聞いたことがないのは言うまでもない。
意気揚々と留学したのだが、フランスの冬の寒さと暗さ、そして余りにも分かりにくいフランス語の発音に打ちのめされ、ロワール川(Le val de LOIRE)の川面を見つめ「何で俺ここにいるんだろう」と自問自答しながら目に涙を浮かべる日々をつづけていた。
Chez Mme Goudron (ゴドゥロンおばさんの家) - 生涯一度 勉強漬けの日々
下宿先のマダム ゴドゥロン家では、朝起きてから夜寝るまで、朝食にも便所にも夕食にも辞書を片手に勉強漬けの毎日を送った。たぶんいままでの人生で一番勉強したのはこのときをおいて他にない。
なぜなら朝から晩までマダム ゴドゥロンが「Futoshi-ふゅーとぉしぃー!○×」と話しかけてきて質問攻め!
決して一人で放ってはおかないその徹底ぶりに、時には辟易しながらも、そう、確実に俺のフランス語会話能力は上達していったのであった。この時期に、2時間〜3時間もかけるフランス式夕食のとり方を徹底的に体に叩き込まれたがゆえ、いまでも「Futoshi-ふゅーとぉしぃー!」の夕食はだらだらと3時間はたっぷりかかっている。 Oh My GOD!!
"Oh la la ! Mon Du Mon Du Quel Malade !! (オー ララ、神様なんてことでしょう!)"
とはマダム ゴドゥロンの口癖であった。
当時、マダム ゴドゥロンはこういっていた「Futoshi-ふゅーとぉしぃー!は素晴らしい日本人だ。
私が面倒をみてきた留学生のなかで、3本の指にはいる勉強家で努力家である。ブラボー!」
覚醒 −転機はある日突然やってきた。
フランス語との格闘にだんだん自分の言語機能が壊れていくのを感じ、日本語でさえまともにしゃべることが出来なくなっていき、ましてや日本語の文章などまったく書けず、なすすべもなく自閉症ぎみになっていく自分にとまどっていたとき-それは現れた。
ある日突然、「夢」のなかの会話がフランス語になったのだ。とまれ、言い換えるとフランス語で「夢」を見たのだ。その日から、目の前のもやもやとした霧が晴れるように人のしゃべっているフランス語がわかるようになってくる。相手のしゃべっていることがわかるかわからないかが語学のなかで重要なのだということに初めて気づいた。
フランス語を話すことができるのは当たり前にフランス語を聞けるからだよね!っていう基本。
それから生活は激変!それまで、酒を絶ち、夕食後一歩も外に出ず勉強部屋に籠もってわき目も振らず勉強していた優等生が、夕食もそこそこにマダム ゴドゥロンを振り切って、外出。
TOURSの旧市街の中心にあるPlace Plumereau.広場に毎晩出没。各国の友人と待ち合わせ、ビールやワインを片手によもやま話に花を咲かせ深夜まで遊び呆ける不良へと大変身をとげっていったのである。しかしこのときの交流が後の見聞録の下地となっていたのは事実である。
当時、マダム ゴドゥロンはこういっていた。
"Oh la la ! Mon Du Mon Du Quel Malade !! (オー ララ、神様なんてことでしょう!)" 「Futoshi-ふゅーとぉしぃー!が不良になってしまった。教会に連れて行って改心させねばならないわ。
あなたは私が面倒をみてきた留学生のなかで、3本の指にはいる大酒飲みだわ。ブーィング!」
外遊 −なんでも見てやろう
フランス語を話せるようになると自然行動範囲は広がってゆく。最初はTOURS市街の散歩から始まって、近郊に点在するロワール河Chateau巡りをするようになった。
Chateau de Chambord、 Chateau de Cheverny、 Chateau de Ambois、 Chateau de Chenonceau、
Chateau de Villandry、Chateau de Azay・le・Rideau、 Chateau de Chinon、 Chateau de Bolois、などなど、
このころの俺は、ロワール川の光と景色に魅せられ、数々のロマンチックな伝説に想いを馳せ、いっぱしの詩人になったつもりであった。
ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー(Jean Nicolas Arthur Rimbaud)ならぬ、アルチューのランボーもの(アル中の乱暴もの)にすぎぬ "わたし"がだ!
この時期、シャモニー・モンブラン(Chamonix-Mont-Blanc)にスキーの腕試しに出かけ、ル・マン24(24 heures du Mans)を観戦にル・マン市へ寝袋持参で野宿を経験し、ブルターニュ(Bretagne)地方をレンタカーで駆け巡り、モン・サン=ミシェル(Mont Saint-Michel)を巡礼し、
「太陽が眩しかったから」殺人を犯したというムルソーのみたであろう"太陽"の光を見に、コート・ダジュール(Cote d'Azur)に夜行で出かける といった暴走を繰り返していたものである。
-------【Fase4】 Les vacances 西欧見聞録-------
-------【Fase5】 パリ第4大学(Universit? de Paris) ラ・ソルボンヌ (La Sorbonne)-------
-------【Fase6】 1988年 人間存在理由とアルベール・カミュ(Albert Camus)-------
-------【Fase7】 1989年 平成元年 「東京すみきDAN」設立-------
-------【Fase8】 1996年4月 TA/Discとの出会い パーソナリティー-------
-------【Fase9】 1997年8月、東京すみきDAN法人化-------
-------【Fase10】 2003年11月、本質と現象のゆらぎ-------
-------【Fase11】 2004年6月、デジタルコンテンツプロデューサー 再起-------
-------【Fase12】 2006年11月、広瀬宰平との出会い-------
-------【Fase13】 2007年8月、遠図 誕生-------
-------【Fase14】 2008年1月、B to Mビジネスの転換-------
-------【Fase15】 2009年 栄光からの陥落 挫折-------
-------【Fase16】 2009年11月、転機と希望-------
-------【Fase17】 2010年1月、新年の誓い-------
-------【Fase18】 2010年3月、遠図練気闘座 完成-------
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